親を許せない気持ち

親を許せないという気持ちわかる気がします。

私も完全に親に対して「ほんとに感謝で一杯。すごく尊敬しています!」という気持ちではありません。 

でもほんとに何かの拍子で(親も一人の人間なんだな、とか)

ああ、そうだよな。あの時は辛かったんだな、わかってあげられなくてごめんね、はあります。 


お互い、上手く付き合える縁で会わなかっただけで、時間軸が違っていたら、お互いに支え合う関係になれたかもしれない。
そんな風に思うこともあります。 


この先、もっと両親に対して心の底から感謝出来る日もくるかもしれないと、今は思います。 

今はそれでいいと思っています。 


親は血縁だけではない、という思いが強くて「全ての男性が父、全ての女性が母」という言葉がしっくりきます。 

だから、親だから大事にしなくてはいけない、とか尊敬しなきゃいけない、ではなく、皆が大事。

逆にその方が「ほんとに感謝」出来るし「ほんとに素晴らしい!」と思えます。 



でもでも、思い出したから書きますが、坊主になって沢山の教えを学ぶ時「お坊さんになって良かった!」と思う瞬間、親に対して「あの両親から生まれて良かった!」と思います(笑) 


「人の悲しみや苦しみ、憎しみや恨み。それを取ってあげるのが優しさではなくて、その横に居ること。隣にちょこっと何も言わずに寄り添うことがほんとの優しさだよ。」とは、
先輩尼僧さんからの頂いた言葉。


親に同調するのではなくて、今は寄り添う形でいる気がします。 

だから、それでいいのかな、と。 


感謝出来ない気持ちを無理やり感謝することはしなくていいように思います。 

坊主がこんなこと書くのもあれですが。 



だって感謝出来ない時は、間違いなく何より本人が一番苦しんでいるのだから、答えを本人は見つけようとしているのだと思うのです。 

その苦しみこそが糧。自分を育てると思います。 


たぶんですが、仏教の言う「感謝しましょう」はそこのレベルのことを言うのではないかな、と。 

やみくもに感謝を強制している訳では無いと思います。
(先徳の方、ご容赦) 



今日も一日お疲れ様でした。


トンボ。見つけられますか?(笑)

目の前にいたのに私の目にはわからずに、そばに居たお義母さんが教えくれて、やっと気がつきました。 

目の前にあるけど見えていないこと。
生きているとそんなこともあります。


どなた様もどうぞ良い夜をお過ごしくださいね。

あいおい庵          

真言宗の尼僧の庵(自宅)です。誰にでもわかりやすい仏教を目指しています。 生活即仏教。相互供養、相互礼拝の心を大事に。楽しく豊かな生活をすごしましょう。 Twitter、アメブロ、noteなどで執筆活動をせっせとしています。もしご覧になりましたら、ぜひ読んでみてくださいね。合掌

0コメント

  • 1000 / 1000